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チャーリー・チャップリンとマリリン・モンロー

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 アメリカ文化はなせ20世紀こんなにも世界中に広まったのでしょうか。映画の話の話になりますが、 ア メリカ映画はまず誰にも分かる表現を追及し ました。どんな人種のどんな階層の人が見ても、登場人物の思考や感情の 動きが手に取るように分かり、納得ができ、共感もできる表現ですね。教 育や教養がなくても分かる表現でなければなりません。  そこに無声映画のチャップリンが登場します。言葉でなくかパントマイムだけであらゆる感情を表現することで、かえって、英語教育を受けていない移民の大衆層の娯楽としても多いに支持されました。         『独裁者』(1940)より、風船の地球儀を弄ぶ名シーン  映画産業は主にアメリカとフランスで勃興。しかし亀井俊介氏によると、 フランス映画などは、芸術志向が強く、演劇の技法など を用いて、知的な観客を引きつけるのに対して、アメリカの映画は、移民や貧しい人々を対象。次第に中産階級に広がる。つまりアメリカ映画はまず誰にも分かる表現を追及し、 人種や階層を問わずに、登場人物の思考や感情の 動きが手に取るように分かり、納得ができ、共感もできる表現がその理由です。  その代表的人物といえば チャーリー・チヤップリン とマリリン・モンローですが、 ギリシア神話の半獣神パンとアフロディーテに似ていませんか?  チャーリー・チヤップリン は、天才的な喜劇俳優であるとともに、戦争や社会を風刺してその芸術家気質を示しました。  チヤップリン映画は 1920 年代から 30 年代、アメリカが第一次世界大戦後 の経済的繁栄から未曾有の不況へと移った時代に絶頂を迎え、無声映画は英語のできない移民にも受け入れられます。 「人生で大切なことは、愛と勇気といくらかのお金だ」という有名なセリフを残しています。   ここでは、賢い道化として、台頭してくる 独裁者ヒットラーに対し実に鋭い 風刺の矢を放ち、徹底したパロディーにしてしまった、チャップリンの名作 『 独裁者 』 について話をすすめましょう。  独裁 者扮する チャップリンのラスト のスピーチで有名な映画で、ヒトラーとナチスドイツを風刺した作品ですが

アメリカの20世紀文化は広まりやすかった3

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 南北戦争の終結(1865)の後、 1869には大陸横断鉄道が完成します。ヨーロッパ中の鉄道より長いアメリカ1国のこの鉄道が、アメリカの産業に飛躍的な拡大のチャンスをもたらしました。  1920年代にははやくも大衆消費社会の実現しました。 これは、大富豪とスラムの中間層である中産階級、弁護士や公務員、ホワイトワーカーが大量に出現し、彼らはスラムを嫌って、都市を出て郊外へ移り住むようになります。郊外は都市より地価が安く、自然の景観や澄み切った空気は楽しめる、子どもを育てるのに良い環境だったからです。次第に交通機関の発達もあり、こういった人々を路面電車が都市へ運びます。 1913年 フォードT型のアセンブリーライン 1908−1927 T 型フォード 1920年代(第一次大戦後) さらにはフォードの自動車に代表される、自動車の大衆化がこの動きに拍車をかけます。アメリカこそ、自動車社会の母体。広大な国土、石油、鉄鉱石など豊富な天然資源、勤労心と進取の気性に富み、移民などで急速に増大する人口、フロンティアを求め、流動性を高めている社会動態は、爆発的な自動車の普及と、自動車中心の産業、社会構造、文化を創出。モーテルやドライブインなどの、自動車中心の施設が急速に普及し、それがアメリカ式生活様式の不可欠の要素となりました。  このように科学技術と企業の結びつき、急激な経済発展は行なわれました。 発明家としては歴史をおうと トーマス・エディソン(電 灯、蓄音機、映画) グラハム・ベル(電話) アイザック・シンガー(ミシン) など、製品化され て莫大な富を生み出すことになります。今日のビルゲイツや スティーブジョブズなどもこういった土壌から生まれてきたわけですね。

20世紀のアメリカ文化は広まりやすかった1

アメリカは、ヨーロッパに遥かに遅れて世界の舞台に登場ししました。19世紀末までアメリカはヨーローパの辺境 ( フロンティア ) でした。基本的には農業国であるアメリカは、南北戦争までは奴隷制度をかかえており、人種差別の問題は現代でも根強くのこっています。しかし、南北戦争後、産業国家として急成長。資源豊かな広大な国士と、移民の労働力で、第一次世界大戦後、戦争で疲れきったヨーロッパ諸国と対照的に世界の大国して登場しました。  世界の大国として評価されるのは、アメリカの大衆文化が世界中に進出し、普遍的に受け入れられたからです。言うならば、 アメリカの文明の力です。アメリカは、20世紀には生産力や自由貿易によって世界一の経済力を持ち、また同時に、ベルやエジソンに大乗されるような発明を工業化する技術力をもちあわせていました。しかしアメリカを大国にのしあげた理由はもうひとつ、文化的な力にあるとも思います。  映画や音楽(ジャスやミュージカル)特許や自動車、飛行機、電話、ラジオなどと、それらを享受するアメリカ流の生活スタイルは、世界中のあらゆるところに浸透していきました。これまでそういった広がりを持った文化はありませんでした。ヨーロッパや日本で歴史とともに積み重ねられ改良されてきた精神的な崇高な文化と違い、アメリカの文化は T シャツ、ジーンズ、コカコーラなどに代表されるような物質的な文化で有る意味揶揄されるわけですが、どうしてここまで広まったのでしょう。 亀井俊介氏の論文や 『アメリカの20世紀』(有賀夏紀氏)『物語アメリカの歴史』(猿谷要氏)によるとを参考に書いてみたいと思います。   人種のるつぼと言われ、多様な文化を持つ 人々あらゆる人々に人種や階級を超えてアビールするだけの普遍性がなければ受け入れられないという状況の中でアメリカの文化が育ってきたのです。宗教や文化の違いを超えて人間の根源的なテーマ、愛や成功などの夢をテーマにしながら誰でも楽しめるような感動できるような文化が求められるわけです。さらに自由経済の国では、数が売れることが大前提なので、必然的に大ぜいに売れるところをめざし、大衆化することになるのです。    こんなふうでしたから、アメリカの映画でいえば、まず誰にも分かる表現を追及し ました。

一流の才能がジャンルを超えて集結 ドビュッシー/ マラルメ/ニジンスキー2

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  さて、『牧神の午後』が、ニジンスキーによってバレエ化されたのはさらに20年以上も後のことです 。 ニジンスキーは若くしてヨーロッパ各地の大劇場において大成功をおさめました。  その役柄は人間以外、または人間以下とみなされたものを踊ることで、それまでの王子のような役柄とは全く異なっておりました。  たとえば妖精(『薔薇の精』)、人形(『ペトルーシュカ』)、神(『青髯』)、牧神(『牧神の午後』)、奴隷(『クレオパトラ』)、(シェラザラード))など、醜いもの、あるいは滑稽とされていた役柄です。  ニジンスキーは、この作品に取り組むのに際し、古代ギリシアからインスピレーションを得たました。バレエの 仕種や姿勢は、紀元前5世紀後半から4世紀にかけての古代の壷に描かれたジェスチャーを写したもので、こうして、ニジンスキーバレエの基礎文法が作り上られたのです。後年イザドラダンカンが行なう技法でもあります。 「牧神の午後への前奏曲より」で踊る ニジンスキー  ニジンスキーは踊り手たちに古典バレエの機械的な動作はすべて忘れるように要求。古典的なバレエのごとく、踊りの型を使った移動などは見られることなく、踊り手達は、始終裸足で歩き、突然停止して化石のように動かなくなってしまうような踊りで、ニンフたちは、上半身は正面を向き、顔は横向き、腕を肩の方に折り曲げ、手の平は観客の方を向くなど様式化されているるのです。  この作品でドビュッシーが音楽の世界でジャス和声に大きな影響を与えたように、二ジンスキーは、モダンダンスのはじまりにつながります。  レオン・バクストの考えたコスチュームも素晴らしく、2本の角と短い尻尾、身体にはおおきな黒い斑、大きく誇張された耳、葡萄の房のついた腰紐が腰に巻かれた牧神の姿でニジンスキーは踊っていますが、ファッションの分野でも現代の源となっています。  レオン・バクストは、ロシアの画家、挿絵画家、舞台美術家、衣裳デザイナーですが、ディアギレフが主宰したバレエ・リュスで、『火の鳥』、『牧神の午後』、 『ダフニスとクロエ』ほか舞台美術を担当。その才能を遺憾なく発揮していると同時に、モダンデザインやファッションの基礎をつくりました。  このときのプロデューサーであるデイアギレフは、バレエ・リュスを率い

一流の才能がジャンルを超えて集結したパリ( マラルメ/ドビュッシー/ニジンスキー)

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   19世紀半ばから20世紀初頭、ドビュッシーが生きたパリをでは、音楽や美術、文学、舞台芸術などの分野において、ジャンルを超えた、幅広い交流が行なわれました。パリは、そうした知的・文化的風土の都市でだったといえましょう。。 美術作品や文学作品にインスピレーションを受けた音楽が生まれ、その一方で、音楽に着想を得て多くの美術作品や文学作品が制作されていったというふうに。   ドビュッシーは、 1862 年にパリ郊外のサン = ジェルマン = アン = レイで生まれ、貧しい少年時代を送りました。10歳でパリ音楽院に入学、ピアニストとして修行。その後、作曲を志し、エルネスト・ ギローに師事 。その頃、母性愛にあふれたヴァニエ 夫人などの パトロン の 女性達に捧げた歌曲を、ローマ大賞受賞までに30曲程作曲しています。ヴァニエ家の図書室では、シェークスピアやヴェルレーヌ、ポー、マラルメなどを熱心に読み、独自の技法づくりやスタイルの革新をめざしました。 印象派や象徴派などの革新的な美術の作品に触れ、芸術家たちと盛んに交流するようになっています。 メーテルリンク、ヴェルレーヌ、セルゲイ・ディアギレフ、ニジンスキー、ラヴェル、サティ、ストラヴィンスキー、ウジェーヌ・カリエール、クロード・モネ、モーリス・ドニなどその交遊関係は実に多彩でした。またパリ万博の影響などでは、ガムラン音楽やジャポニズムの影響また、この時代の アール・ヌーヴオーなど、多いに影響しています。   マルセル・パシェ《クロード・ドビュッシーの肖像》 オルセー美術館蔵  またドビュッシーは日本の美術を大いに好み、交響詩『海』の表紙は、葛飾北斎の「神奈川沖波裏」の図柄で飾られ、ピアノ曲『金色の魚』は、緋鯉が泳ぐ蒔絵の箱にイメージを得て作曲されました。 
 また、ドビュッシーは、日本美術の熱心な蒐集家でもあり、サロンの暖炉の上には仏像が置かれ、書斎の壁には喜多川歌麿の浮世絵が飾られました。  広重・北斎・国芳の展覧会がジークフリート・ビングの画廊で開催された年には、ドビュッシーはピアノ作品『版画—塔、グラナダの夕べ、雨の庭』を発表している。しかし、それは、単なる異国趣味ということとはおよそかけ離れたものであって、絵画で言うならば、ヨーロッパが、輪郭線からようやく自由になることが