一流の才能がジャンルを超えて集結したパリ( マラルメ/ドビュッシー/ニジンスキー)
19世紀半ばから20世紀初頭、ドビュッシーが生きたパリをでは、音楽や美術、文学、舞台芸術などの分野において、ジャンルを超えた、幅広い交流が行なわれました。パリは、そうした知的・文化的風土の都市でだったといえましょう。。美術作品や文学作品にインスピレーションを受けた音楽が生まれ、その一方で、音楽に着想を得て多くの美術作品や文学作品が制作されていったというふうに。
ドビュッシーは、1862年にパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レイで生まれ、貧しい少年時代を送りました。10歳でパリ音楽院に入学、ピアニストとして修行。その後、作曲を志し、エルネスト・ギローに師事。その頃、母性愛にあふれたヴァニエ夫人などのパトロンの女性達に捧げた歌曲を、ローマ大賞受賞までに30曲程作曲しています。ヴァニエ家の図書室では、シェークスピアやヴェルレーヌ、ポー、マラルメなどを熱心に読み、独自の技法づくりやスタイルの革新をめざしました。印象派や象徴派などの革新的な美術の作品に触れ、芸術家たちと盛んに交流するようになっています。メーテルリンク、ヴェルレーヌ、セルゲイ・ディアギレフ、ニジンスキー、ラヴェル、サティ、ストラヴィンスキー、ウジェーヌ・カリエール、クロード・モネ、モーリス・ドニなどその交遊関係は実に多彩でした。またパリ万博の影響などでは、ガムラン音楽やジャポニズムの影響また、この時代のアール・ヌーヴオーなど、多いに影響しています。
またドビュッシーは日本の美術を大いに好み、交響詩『海』の表紙は、葛飾北斎の「神奈川沖波裏」の図柄で飾られ、ピアノ曲『金色の魚』は、緋鯉が泳ぐ蒔絵の箱にイメージを得て作曲されました。
また、ドビュッシーは、日本美術の熱心な蒐集家でもあり、サロンの暖炉の上には仏像が置かれ、書斎の壁には喜多川歌麿の浮世絵が飾られました。
広重・北斎・国芳の展覧会がジークフリート・ビングの画廊で開催された年には、ドビュッシーはピアノ作品『版画—塔、グラナダの夕べ、雨の庭』を発表している。しかし、それは、単なる異国趣味ということとはおよそかけ離れたものであって、絵画で言うならば、ヨーロッパが、輪郭線からようやく自由になることができたともいえます。
ドビュッシーの音楽的な特徴といえば、 東洋風の五音音階、全音音階、移調の限られた音階、付加リズム、ポリリズムなどと、間を大切にすることなど、様々ですが、現代音楽やジャズの出発点ともいえます。
作品「牧神の午後への前奏曲」を例にとってみましょう。この作品は、ギリシア神話を題材にしています。山羊の角を持つ牧神(別名半獣神)パンが、アルカディアの森で妖精シュリンクスに恋をし、追いつめた川辺で妖精は葦に姿を変えてしまい、失意のパンはその葦で葦笛を作って携帯、その音色にいつも心を慰められたという物語です。それを題材に、ステファヌ・マラルメは『牧神の午後』という詩を書きました。そのイメージ舞台は田園理想郷として語られる美しいアルカディアの森の午後です。牧神パンはじりじりと照りつける午後の太陽の下で、美しいニンフを追いかける甘味な夢を見るというものです。
ドビュッシーは今日の音楽を築いたといえるのですが、交遊関係を見てみましょう。
メーテルリンク(1862 ~ 1949)
セルゲイ・ディアギレフ(1872 ~ 1929) プロデューサー
ラヴェル(1875 ~ 1937)
サティ(1866 ~ 1925)
ストラヴィンスキー(1882 ~ 1971)
ニジンスキー(1890 ~ 1950)
ウジェーヌ・カリエール(1849 ~ 1906)
ヴェルレーヌ(1844 ~ 1896)
フォンテーヌ(1860 ~ 1931) 芸術パトロン
モネ(1840 ~ 1926)
イヴォンヌ&クリスティーヌ・ルロール
また、ドビュッシーに影響を与えた人として
マラルメ(1842~1898)
エドガー・アラン・ポー(1809~1849)
ワグナー(1813~1883)
ボードレール(1812~1867)
葛飾北斎(1760~1849)
ドビュッシーの影響を受けた芸術家は、数知れません。
コメント
コメントを投稿