19世紀後半にできた現在のパリの街なみ

19世紀になると、農村を追われた人々がパリに貧民が流れ込み、
パリは人口が増え、たいへん不衛生な状態になりました。
第2帝政期といわれた、ナポレオン3世の時代、
知事のオスマンはパリの大都市改造を行ないます。
凱旋門のあるエトワール広場と12本の通り
エッフェル塔
シャンゼリゼ通り
これは現在の原型でもあります。
凱旋門のある円形のエトワール広場からは、放射状に12本の道路が伸びています。
凱旋門の展望台から360度見渡すと、完璧な直線で幅広い街路が広がっています
ここもオスマンの都市計画によって整備された広場で,
周辺の建物の高さはピッタリそろっており、屋根は平面状に果てしなく広がっています。
建物の幅、色などの建物に対するこのような細かな規制が、パリに秩序を与え、統一感のある街並みを実現させています。


       
          ジョルジュ・オスマンのパリ改造による披露直線的な大通り
                


フランスの19世紀後半は、裕福な市民たちの時代です。
マネ の作品「テュイルリー公園の音楽会」 1862 をみてみましょう。
これは集団肖像画というもので、裕福な市民たちは、このようにして
自分たちを描いていました。 


テュイルリーの音楽会Music in the Tuileries, 1862

当時、パリの大改造が行なわれたのは万博があったからです。
パリでは、1855年、1867年、1878年、1889年、1900年、1937,6度の万国博覧会が開かれました。ちなみに第1回の万博はロンドンです大英帝国の首都でしたが、すぐにパリ開催が1855年に実現。約11年ごとにパリで万博は開催され、都市の繁栄とともに華やかな祭典が催され、世界の観光客を集めました。889年の万博で、高い水準の独創的鉄骨建築としてエッフェル塔が建てられました。


エッフェル塔(1889年)


 当初は、モーパッサン初め、多くの文化人の反対にもあいましたが20世紀に入るとその美しさを認められ、徐々に芸術家たちから賞賛されるようになり、現在は無くてはならないパリのシンボルとなりました。




市民の文化といえば、百貨店もこの時代に生まれました。19世紀のパリは、中世以来の無秩序な都市空間のなか、急速な工業化にともない、職を求め住みつく人々の増加、不衛生な環境に悩まされていました。これに対して、皇帝ナポレオン三世は大規模な都市計画を打ち出します。この都市改造の中心的な役割を果たしたのはセーヌ県知事のジョルジュ=ウージェーヌ・オスマン(Georges Eugène Haussmann 18091891)です。結果、パリは近代都市に生まれ変わり、裕福な市民階級の時代がはじまりました。



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